2015/08/03

3. 『朱の盆』の話

遅い昼飯を簡単に済ませて、私は本町の諏方神社近くに住む佐々木老人を訪ねた。
いつものように大竹洋品店とせと万陶器店との間の小径を通り諏方神社へと向かった。
午後から日差しは強さを増し、諏方神社の境内では耳の奥をジーンと痺れさせるような蝉しぐれが一層の蒸し暑さを醸していた。

佐々木老人は扇風機の前であぐらをかき、タオルで汗を拭きながら笑顔で迎えてくれた。
今日は諏方神社の例祭である。
佐々木老人の住まいは諏方神社の参道に面しているので、行き交う人々で実に賑やかである。
日が傾いたら我々も例祭に出かけ、ついでにどこかで一杯やろうという事になった。
老人はつめたく冷した麦湯をコップに注ぎながら、「諏方神社と言えば、こんな話がありましたよ」と語り出した。

        … … …

かつて諏方神社界隈には、「朱の盆【しゅのぼん】」と呼ばれる妖怪が現れ、近隣の住民に怖れられていた。

「朱の盆」は、小泉八雲の『むじな』と同様に、同じ行為を何度か繰り返す“ループ系妖怪”で、「朱の盤」あるいは「首の番」などの別名を持つ。

「朱の盆」に関わる死亡事件が起きている。
山田角之進なる若侍が諏方神社に出る妖怪の正体を確かめようと夜中に出かけ、朱の盆に遭遇し、その恐ろしさのあまり失神する。
息を吹き返し家路を急ぐ途中に再び朱の盆に出会い、やっとの思いで帰宅したが、心労の余り100日間寝込んだ挙げ句、家人に成りすました朱の盆にまたもや間近で遭遇し、ついには悶死してしまった。
豊臣秀吉が没した1598年(慶長3年)の出来事である。

この山田角之進と言う人物、氏名と死ぬまでの日数が明確な割にはその他の情報が全く無い。
ネット検索をしても、1928年に制作された日活時代劇『高杉晋作』の登場人物にその名前が確認できるだけであるが、朱の盆事件とは無関係の別人と思われる。
山田角之進より他には、諏方神社の「朱の盆」による犠牲者の記録は見当たらない。

実はこの朱の盆事件は妖怪にかこつけた、山田角之進周辺人物らによる殺害事件だったのだ
角之進は普段から無闇に蛮勇をふるいたがるうえに懐疑心の強い性格で、周囲の人々から疎まれていた。
そこで数名の者が結託し、角之進が夜中に諏方神社に出向くように仕向け、そのうえで各所に朱の盆に扮した者を配置し、精神的ショックを繰り返し与え、ついには角之進を死に至らしめたのである。

だが「朱の盆」は決して空想上の妖怪などではなかった。実在したのである。
山田角之進の死より200年余り前に、諏方神社境内の一角に「朱の盆」は封じ込められた。

南北朝の頃は、まだまだ魑魅魍魎が跳梁跋扈する世の中で、黒川城下の諏方神社付近もまた例外ではなかった。
朱の盆の悪行に困り果てた住民たちは、現在の喜多方市にある示現寺の玄翁和尚に助けを求めた。

示現寺は空海が開祖とされており、元々は慈眼寺と言った。
源翁心昭が1375年に示現寺として再興し、その10年後に那須の殺生石を破壊退治している。

九尾の狐が化けたという玉藻前は鳥羽上皇の寵愛を受けていたが、鳥羽上皇の原因不明の体調不良がもとで、陰陽師の安倍泰成にその正体を見抜かれる。
玉藻前は栃木県那須町へ逃亡し、九尾の狐の姿を現し悪行を繰り返した。
鳥羽上皇の8万余りの討伐軍が2度にわたり攻撃。
ついには三浦介義明が放った2本の矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介広常の太刀で絶命。
だが、その直後に九尾の狐は毒を噴出し続ける巨岩「殺生石」と変化した。
その巨岩を打ち砕き、噴き出す毒を弱めたのが源翁心昭である。その際に大きな金槌を使用したが、その槌が只今の玄翁(ゲンノー)の語源となっている。
源翁心昭はこの功績が認められ、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜った。

この強力な法力を備えた玄翁和尚は諏方神社付近住民の依頼に応え、朱の盆を諏方神社境内内の土中深くに封じ込め、その上を数本の石柱で覆い封印した。

        … … …

佐々木老人はここまで話し終え、すっかり生ぬるくなった麦湯を飲み干した。
テーブルにはコップから垂れた水滴が小さな水たまりを作っていた。

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