2015/09/01

4. 『傘化け』の話

COOPほんまち店で買い物をして、諏方神社近くの佐々木老人宅へ向って本町通りを歩いていると私を呼び止める声がした。
見回すと佐々木老人が大関家具店の中から手招きをしていた。
老人は店舗に入ってすぐの所に展示されてある焼き物の傘立てを見ていたのだと言う。
見てみると、さほど高くない価格の割に見栄えのする傘立てが陳列されていた。
しかし見栄えが良すぎて、老人の家には不似合いだと思った。
佐々木老人自身もそのように思っているようで、今日は買わずに帰る事となった。
連れ立って歩いていると、老人は傘立てから連想したらしく、傘化けの話しを始めた。

      … … …

傘化けは、唐傘小僧とか傘おばけなど、土地により時代により様々な呼び名を持っている。
出没する特定の場所も無ければ、その行動も定まった形が無く、いったい何をする妖怪なのかまったく分からない。
昔から名前は聞いているが、見た事も無ければ、実際に見たと言う人に会った事もない。
これだけポピュラーな妖怪なのに妙なものである。
その姿は時代の経過に沿ってだいぶ様変わりしている。
初期の傘化けの絵は、見すぼらしくはあるが、ごく普通の人間が巨大な納豆の苞を頭に被り、藁の隙間から顔を覗かせて悪ふざけをしているような、とても妖怪とは思えない格好をしていた。
時代が下ると様子が変わり、立てた唐傘から2本の手と2本の足が出ていて、破れ目から貧弱な目が覗いている格好になった。
それが更に変化し、下駄を履いた一本足に大きな一つ目、そして長い舌を出しているご存知の形になった。
傘化けは、道具や器物が長い時間経過の末に魂が宿った付喪神の一種であるとする説があるが、他の付喪神たちとはかなり異なった性質の存在である。
と言うのも、付喪神と言う物が広く信じられていたであろう時代には限り無く人間に近い形であったが、付喪神の概念が薄らいで来た近代になってようやく妖怪らしい姿形を手に入れた、遅咲きの物の怪なのである。
傘化けは今後、どの様な姿に変化して行き、どのような性格付けをされて行くのだろうか。

      … … …

話が傘化けの今後の展望にまで及んだ所で佐々木老人宅に着いた。
「焦らず無理せずコツコツと」が長続きのコツであり、永く続ける事が成長のカギであると、傘化けから訓えられた気がする。
付喪神とはそう言った訓えが、本来とは違った形で解釈された物なのかも知れない。
しかしこの様に、物語や言い伝えから何かしらの教訓めいた物を得たような事を語りたがるのは、我々現代人の思い上がりであり、国語教育の弊害なのである。
カンナ屑から鰹ダシを取ろうとするような浅はかで浅ましい事はせずに、ただ単純に驚いたり恐怖したり面白がったりしていれば良いのである。

2015/08/03

3. 『朱の盆』の話

遅い昼飯を簡単に済ませて、私は本町の諏方神社近くに住む佐々木老人を訪ねた。
いつものように大竹洋品店とせと万陶器店との間の小径を通り諏方神社へと向かった。
午後から日差しは強さを増し、諏方神社の境内では耳の奥をジーンと痺れさせるような蝉しぐれが一層の蒸し暑さを醸していた。

佐々木老人は扇風機の前であぐらをかき、タオルで汗を拭きながら笑顔で迎えてくれた。
今日は諏方神社の例祭である。
佐々木老人の住まいは諏方神社の参道に面しているので、行き交う人々で実に賑やかである。
日が傾いたら我々も例祭に出かけ、ついでにどこかで一杯やろうという事になった。
老人はつめたく冷した麦湯をコップに注ぎながら、「諏方神社と言えば、こんな話がありましたよ」と語り出した。

        … … …

かつて諏方神社界隈には、「朱の盆【しゅのぼん】」と呼ばれる妖怪が現れ、近隣の住民に怖れられていた。

「朱の盆」は、小泉八雲の『むじな』と同様に、同じ行為を何度か繰り返す“ループ系妖怪”で、「朱の盤」あるいは「首の番」などの別名を持つ。

「朱の盆」に関わる死亡事件が起きている。
山田角之進なる若侍が諏方神社に出る妖怪の正体を確かめようと夜中に出かけ、朱の盆に遭遇し、その恐ろしさのあまり失神する。
息を吹き返し家路を急ぐ途中に再び朱の盆に出会い、やっとの思いで帰宅したが、心労の余り100日間寝込んだ挙げ句、家人に成りすました朱の盆にまたもや間近で遭遇し、ついには悶死してしまった。
豊臣秀吉が没した1598年(慶長3年)の出来事である。

この山田角之進と言う人物、氏名と死ぬまでの日数が明確な割にはその他の情報が全く無い。
ネット検索をしても、1928年に制作された日活時代劇『高杉晋作』の登場人物にその名前が確認できるだけであるが、朱の盆事件とは無関係の別人と思われる。
山田角之進より他には、諏方神社の「朱の盆」による犠牲者の記録は見当たらない。

実はこの朱の盆事件は妖怪にかこつけた、山田角之進周辺人物らによる殺害事件だったのだ
角之進は普段から無闇に蛮勇をふるいたがるうえに懐疑心の強い性格で、周囲の人々から疎まれていた。
そこで数名の者が結託し、角之進が夜中に諏方神社に出向くように仕向け、そのうえで各所に朱の盆に扮した者を配置し、精神的ショックを繰り返し与え、ついには角之進を死に至らしめたのである。

だが「朱の盆」は決して空想上の妖怪などではなかった。実在したのである。
山田角之進の死より200年余り前に、諏方神社境内の一角に「朱の盆」は封じ込められた。

南北朝の頃は、まだまだ魑魅魍魎が跳梁跋扈する世の中で、黒川城下の諏方神社付近もまた例外ではなかった。
朱の盆の悪行に困り果てた住民たちは、現在の喜多方市にある示現寺の玄翁和尚に助けを求めた。

示現寺は空海が開祖とされており、元々は慈眼寺と言った。
源翁心昭が1375年に示現寺として再興し、その10年後に那須の殺生石を破壊退治している。

九尾の狐が化けたという玉藻前は鳥羽上皇の寵愛を受けていたが、鳥羽上皇の原因不明の体調不良がもとで、陰陽師の安倍泰成にその正体を見抜かれる。
玉藻前は栃木県那須町へ逃亡し、九尾の狐の姿を現し悪行を繰り返した。
鳥羽上皇の8万余りの討伐軍が2度にわたり攻撃。
ついには三浦介義明が放った2本の矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介広常の太刀で絶命。
だが、その直後に九尾の狐は毒を噴出し続ける巨岩「殺生石」と変化した。
その巨岩を打ち砕き、噴き出す毒を弱めたのが源翁心昭である。その際に大きな金槌を使用したが、その槌が只今の玄翁(ゲンノー)の語源となっている。
源翁心昭はこの功績が認められ、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜った。

この強力な法力を備えた玄翁和尚は諏方神社付近住民の依頼に応え、朱の盆を諏方神社境内内の土中深くに封じ込め、その上を数本の石柱で覆い封印した。

        … … …

佐々木老人はここまで話し終え、すっかり生ぬるくなった麦湯を飲み干した。
テーブルにはコップから垂れた水滴が小さな水たまりを作っていた。

2015/07/25

2. 『豆腐小僧』の話

今日は会津若松市本町の佐々木老人宅に呼ばれて酒を飲む事になっていた。

午後5時の約束だったが少し早く到着したので、斎藤豆腐店に寄り豆腐2丁を買い求めた。
ついでに豆乳ソフトも買い、本町通り(日光街道)を挟んだ向かい側の、せと万陶器店と大竹洋品店との間の狭い路地を少し入った所に設えられたベンチに腰掛け、既に溶け始めて手に垂れて来た豆乳ソフトを舐めた。
ソフトを食べ終え満足の鼻息を吐くと、胃の辺りから登ってきた冷気が鼻孔を出て行った。

約束の時刻になり諏方神社近くの佐々木老人宅を訪れた。
斎藤豆腐店で求めた豆腐を冷奴にし、よく冷えたビールを飲み始めると「私がまだ子供だった時分の話ですがね」と佐々木老人は話し始めた。

       … … …

昔は路地裏や、家と家とのちょっとした隙間などに、何やら妙な物が居たものである。
それが何なのかと思い、じっと見たりすると途端に何も見えなくなる。
それでも同じ場所で幾人もの人が何かを見たと言うと、町内の物知り顔をした古老などが「あぁ、それは○○と言う妖怪だよ」などと言っていたものである。
そんな中で、ハッキリと姿を現したものの一つに豆腐小僧がある。

豆腐小僧はあまり日の当たらない、いつもジメジメと湿った場所で見かける事が多かった。
その当時でもずいぶん古めかしいと思う格好をしていた。
大きな竹の編笠を被り、鯉や人形の絵柄の短い着物を着て、差し出した器にある豆腐を賞味するように懇願するのであった。
色白で無表情な顔付きで、聞き取れないような小さな声で豆腐を勧めるので最初は気味が悪いが、何だか可哀想になり少しだけ豆腐を口にすると、豆腐小僧はたいそう喜び、小間使いなどを快く引き受けてくれるのであった。

町内の古老の話では、豆腐小僧は妖怪世界の中では虐げられた存在で、他の妖怪の使い走りのような事をやらされており、肩身の狭い暮らしをしているようだった。
気が付けば、いつの間にかその姿を見かけなくなった。

       … … …

佐々木老人は話し終え、私の空になったコップにビールを注ぎながら、「この辺りでよく豆腐小僧を見かけたのはね」と本町の裏通りの、とある場所を教えてくれたが、老人が最後に豆腐小僧に会ってから既に70年近く経っている。
豆腐小僧も佐々木老人と同じような爺さんに成っているのだろうか。
それでもどこかで達者に暮らして居てくれれば良いと思う。

2015/07/18

1. 会津本町 茶飲み話

会津若松市本町に住む佐々木老人とはひょんな事で知り合い、度々お宅を伺っては老人の思い出話などを聞くようになった。
話の多くは狐狸妖怪の類に関する物である。

昔は自然界と人間の生活圏との境が、今よりもずっとずっと人間界寄りにあり、その曖昧で混沌とした世界観を受け入れざるを得ない生活を送っていたが、それを苦とは思わず、かえって現代とは違った価値観を持っていた事で、精神面に於いては現代よりはるかに豊かな日常を送っていた事がうかがえた。

佐々木老人に淹れてもらった茶を啜りながら聞いた、ほんの少し昔の日本人の心や暮らしぶり、そして本町の町並みなどの事を、『会津本町 茶飲み話【あいづほんまち ちゃのみばなし】』として記す事にする。